はじめに:「なんで分かってくれないんだ!」その悩み、実は構造的な問題だった
「なぜ、うちの社員は自分と同じように考えてくれないんだろう?」
多くの経営者が、一度はこんな風に頭を抱えたことがあるのではないでしょうか。
変化の激しい時代を生き抜くために、社員一人ひとりが会社のことを自分事として捉え、自律的に動く「全員経営」が理想。そう願う一方で、現場には「指示待ち」の空気が漂い、経営陣と社員の間には見えない溝が…。
もしあなたがそんな苛立ちを感じているなら、少しだけ視点を変えてみませんか?
実は、社員が経営者視点や経営者目線を持てないのは、彼らのやる気や能力だけの問題ではないのかもしれません。むしろ、会社の仕組みそのものや、日本特有の企業文化、そして人間心理の深い部分に、その根本的な原因が隠されているのです。
この記事では、「社員が悪い」「意識が低い」といった精神論から一歩踏み出し、なぜそのような状況が生まれてしまうのかを構造的に解き明かしていきます。
そして、その溝を埋め、本当の意味での「全員経営」を実現するための、具体的で実践的な方法を一緒に考えていきましょう。
そもそも「経営者視点」「経営者目線」って何だろう?
「もっと経営者視点を持って仕事をしてほしい!」
会議や面談で、つい口にしてしまうこの言葉。でも、具体的に「経営者視点」とは何なのか、明確に説明できるでしょうか?
この章では、この便利な言葉をフワッとした精神論から、具体的で育てられるスキルへと分解してみましょう。
1. 意外と知らない「経営者視点」の本当の意味
経営者視点とは、単に「コストを意識しろ」「売上を考えろ」ということではありません。
それは、自分がこの会社の経営者だったらどう考え、どう行動するか?という立場に立って物事を見る力のことです。
目の前の仕事や自分の部署の利益だけを考えるのではなく、会社全体の状況を理解し、会社が長く成長していくために「今、何をすべきか」を自分で考えて判断する思考スタイル。
もはや一部の役員だけのものではなく、変化の速い現代では、若手から管理職まで、すべての社員に求められるスキルになりつつあります。
2. 「経営者視点」を支える3つの力
この「経営者視点」という考え方は、大きく3つの力に分解できます。それぞれ見ていきましょう。
①全体を見る力(空からの視点)
これは、会社全体を一つの大きなシステムとして捉える力です。自分の仕事や部署の目標(部分最適)だけでなく、会社全体にとって何がベストか(全体最適)を考える視点と言えます。
- 何を見るの?
会社の財務状況(儲かっているか、資産はどれくらいか)、市場の動き、ライバルの動向、社内の体制、ビジネスの仕組み、そしてヒト・モノ・カネ・情報といった資源がうまく使えているかなど、あらゆる要素を立体的に把握する力です。マッキンゼーの7Sのようなフレームワークを使うと、この全体像を整理しやすくなります。
②未来を見通す力(望遠鏡の視点)
これは、時間軸を「今」から「未来」へとグッと伸ばして考える力です。目先の利益だけでなく、数年後の市場の変化やリスクを予測して、今から手を打つことを考えます。
- どれくらい先を見るの?
一般的に、社員が見ているのは1ヶ月先、管理職は1年先、そして経営者は3年から10年先を見ていると言われます。例えば、感染症が流行した時に、いち早くビジネスの形を変えて新しいニーズに応えられた企業は、この未来を見通す力があったからこそです。常に世の中の動きにアンテナを張り、次の一手を考える姿勢が求められます。
③自分事として捉える力(「我が事」にする力)
これが経営者視点の心臓部とも言える部分。会社の成功や失敗を、まるで自分のことのように捉える「当事者意識」です。
- どういうこと?
会社の目標を「やらされ仕事」ではなく「自分の目標」として捉えることです。何かを決めるとき、儲かるかどうか(リターン)だけでなく、どんな危険があるか(リスク)もセットで考えます。そして、ただ言われたことをやるだけでなく、その結果に最後まで責任を持つという覚悟。それは、船の乗客から、一緒に船を動かすクルーへと意識が変わるようなものです。
多くの会社では、この3つの力をバランスよく育てる視点が抜け落ちています。特に、「自分事として捉えろ!」と感情的なコミットメントを求めながら、そのために必要な「全体を見る力」を養うための情報(会社の財務データなど)や、「未来を見通す力」を育むためのビジョン共有が足りていないことが多いのです。これでは、せっかくの掛け声も空振りに終わってしまいます。
同じ会社、違う世界:経営者と社員、見えている景色の違い
同じオフィスで働いていても、経営者と社員が見ている景色は全く違います。
この章では、両者の考え方、責任、持っている情報、そして心の状態がいかに違うかを見ていきましょう。
この「構造的な違い」を理解することが、なぜ「同じ視点を持って」と言うのが難しいのかを解き明かす鍵となります。
1. なぜ、話が噛み合わないのか?構造的なズレ
経営者と社員の間には、役職以上の深い溝が存在します。
- 考えていること、優先順位
経営者は、会社全体の成長や3年、5年、10年先の未来、そして株主など会社に関わるすべての人への貢献といった大きなテーマについて考えています。一方、社員の関心は、自分の部署の目標達成や個人の評価、日々のタスクといった、より身近で短期的なことに向かいがちです。経営者が目指す「全体最適」と、社員が評価される「部分最適」は、時として矛盾することもあり、これが考え方のズレを生んでいます。 - 背負っているもの(責任とリスク)
経営者は、社員の生活を守り、会社を存続させるという、文字通り会社の運命を背負っています。多くの中小企業経営者は、個人資産を担保に入れるなど、プライベートまでリスクに晒しています。一方、社員の責任は与えられた仕事の範囲内。雇用契約によって、そのリスクは限定されています。この「背負っているものの重さ」の違いが、危機感の温度差を生むのです。 - 持っている情報量の違い
経営者は、会社の健康状態や進むべき道を決めるための、財務データなどすべての情報にアクセスできます。これこそが経営者目線での判断の土台です。しかし、社員に与えられる情報は、自分の仕事に必要な断片的なものであることがほとんど。経営者が求める「大局的な視点」を持つための“地図”そのものが、社員の手元にはないのです。
2. 指揮官のプレッシャー:トップの決断はいつも孤独
社員からは見えにくいですが、経営判断には想像を絶するほどの精神的なプレッシャーが伴います。この「孤独感」こそが、経営者と社員の世界を隔てる大きな壁の一つです。
- 最後の砦という重圧
会社の未来を左右するような重要な決断は、最終的に経営者一人の肩にのしかかります。相談できる人はいても、結果の全責任を分かち合える人はいません。このプレッシャーは、他では味わうことのない強烈な孤独を生み出します。 - 価値観のズレと孤立
会社の借金の個人保証など、経営者特有の「逃げられない立場」は、社員とは全く異なる価値観を形成します。会社を存続させるための決断が、時に社員の短期的な利益とぶつかることもあり、「なぜ分かってくれないんだ」という孤立感を深める原因になります。 - 弱さを見せられない立場
経営者は、組織のリーダーとして、不安や弱みを社員に見せられないというプレッシャーと常に戦っています。大事な情報を胸に秘め、一人で悩み続けることで、精神的な孤立はさらに深まります。この過度なストレスは、時にうつ病などの心の病を引き起こし、経営判断そのものを鈍らせる危険性すらあります。
こうした構造的・心理的な違いを無視して、「経営者と同じ視点を持て」と求めるのは、武器も地図も渡さずに「あの山の頂上を目指せ」と言うようなもの。
まずは、お互いが全く違う場所に立っているという現実を認めることが、すべての始まりです。
表2.1:経営者と社員、見えている景色の違い
項目 | 経営者の視点 | 社員の視点 |
時間軸 | 3年~10年の未来を見ている | 1ヶ月~1年の今を見ている |
関心の範囲 | 会社全体、市場、すべての関係者 | 自分の部署、チーム、担当業務 |
大事な数字 | 会社の利益、キャッシュフロー、市場での立ち位置 | 売上目標、プロジェクトの納期、個人の成績 |
背負うリスク | 会社の存続、個人の経済的責任など、人生を賭けたリスク | プロジェクトの失敗、人事評価など、仕事上のリスク |
持っている情報 | 戦略や財務に関するすべての情報 | 自分の仕事に必要な限られた情報 |
心の状態 | 高いプレッシャー、孤独感、未来への不安 | 目の前の仕事のストレス、安定したい気持ち |
「経営者視点」を阻む“見えない壁”の正体
社員が経営者視点を持てないのは、やる気がないからではありません。実は、会社の仕組みそのものが社員の視野を狭め、心理的に「経営者のように考えるなんて、バカバカしい」と感じさせてしまっているのかもしれません。
この章では、その根本原因を「組織の仕組み」と「人の心理」の両面から探っていきます。
1. あなたの会社は大丈夫?社員の思考を止める組織の仕組み
多くの会社には、知らず知らずのうちに社員を「指示待ち」にしてしまう仕組みが潜んでいます。
- 「タテ割り組織」と「限定された責任」
社員は特定の部署に配属され、「ここからここまでがあなたの仕事です」と明確に線引きされます。その「箱」の中での成果だけが評価されるため、自然と視野は狭くなり、会社全体を見渡す機会を失ってしまいます。部署間の壁が高ければ高いほど、他の部署が何をしているのか、会社全体のお金がどう流れているのかが見えなくなり、「全体最適」なんて考えようがありません。 - 「トップダウン文化」と「情報のブラックボックス化」
上層部から一方的に指示が下りてくるだけの組織では、社員は自分で考えるチャンスを奪われ、「言われたことだけやればいい」という姿勢が当たり前になってしまいます。さらに問題なのは、その指示の背景にある「なぜそれをするのか?」という戦略的な意図が共有されないこと。理由も分からず「これをやれ」とだけ言われても、仕事は「自分事」にはならず、ただの「作業」になってしまいます。 - 「ビジネスリテラシー教育」の不足
経営者は社員に「会社の数字を理解してほしい」と願いながら、そのための具体的な教育機会を提供していないことがよくあります。会社の成績表である損益計算書の読み方や、重要な経営指標の意味を知らなければ、社員が経営者目線で判断を下すことは不可能です。これは、料理の仕方を知らない人に「美味しい料理を作れ」と言っているのと同じです。
2. なぜ「自分事」になれないのか?その心理に迫る
社員が経営者視点を心のどこかで拒んでしまうのは、怠けているからではなく、それが心理的に見て「割に合わない」と感じるからです。
- コントロールできないリスクは避けたい(脳の仕組み)
人間の脳は、自分でコントロールできないと感じる状況では、リスクを避けるようにできています。社員は、会社の重要な戦略やお金の使い方、誰を採用するかといった事柄にほとんど口出しできません。それなのに、経営者と同じレベルの心配(会社の業績への不安など)をしろと言われるのは、脳が「危険信号」を出すのです。権限がないのに責任だけ負わされるのは、損な賭けだと本能的に感じてしまうのです。 - 「言ってることと、やってることが違う!」(認知的不協和)
社員が置かれている現実(固定給、限られた権限、大きなリターンはない)と、経営者が求める心構え(ハイリスク・ハイリターンのオーナー意識)には、大きな矛盾があります。この矛盾は、心の中に「認知的不協和」という強いストレスを生み出します。このモヤモヤを解消するために、人は「自分はただの社員だから」と自分の立場を正当化したり、「経営者視点を持てなんて、そもそも無理な話だ」と要求そのものを否定したりするのです。これは、十分な見返りも与えずに、もっと働かせようとする都合のいい言い訳だと感じられても仕方ありません。 - 本当の「当事者意識」が生まれる条件
心理学の研究によると、人が心から「自分事」だと感じるには、3つの基本的な欲求が満たされる必要があると言われています。
自律性: 自分で考えて、自分で決められる自由があること。トップダウンの組織では、この感覚が失われがちです。
有能感: 自分の行動が、良い結果につながっていると実感できること。判断材料となる情報や知識がなければ、この感覚は生まれません。
関係性: 会社の目的や仲間と強いつながりを感じられること。自分が「交換可能な部品」ではなく「大切なパートナー」として扱われていると感じられなければ、この欲求は満たされません。
これらの心理的な欲求が満たされないまま、いくら「経営者視点を持て!」と叫んでも、それは社員の心に響きません。
オーナーのような当事者意識を求めるなら、それに見合うだけの情報、権限、そして成功した時の喜びを分かち合う仕組みを整えることが、何よりも先決なのです。
日本企業ならではの“文化”という壁
会社の仕組みや個人の心理だけでなく、私たち日本の企業社会に深く根付いた独特の文化も、社員の経営者視点の育成に影響を与えています。
この章では、そうした日本特有の要因を少し掘り下げてみましょう。
1. 「安定」が当たり前だった時代の名残
高度経済成長期を支えた日本の雇用システムは、安定と引き換えに、オーナーシップとは少し違うマインドセットを育んできました。
- 終身雇用という安心感
この制度は変わりつつありますが、「会社にいれば定年まで安泰」という意識は、今も多くの人の心に残っています。この安心感は、会社の業績が自分の生活に直結するという、経営者が持つようなヒリヒリとした危機感を持ちにくくさせる側面があります。 - 年功序列という順番待ち
成果よりも勤続年数が評価される環境では、リスクを取って新しいことに挑戦するよりも、波風を立てずに「順番を待つ」方が賢い選択になりがちです 。特に、やる気のある若手にとっては、経営者目線で主体的に動くインセンティブが働きにくい構造と言えるかもしれません。
2. 「和」を重んじるコミュニケーション
チームの調和を大切にする文化は、素晴らしい日本の美徳ですが、時には大胆な意思決定の足かせになることもあります。
- コンセンサス形成(根回し)
会議の前にあらかじめ関係者の合意を取り付けておく「根回し」。これは物事をスムーズに進める知恵ですが、一方で、突拍子もない「経営者的な」アイデアを持つ人が、提案をためらう原因にもなり得ます。周りの調和を乱すことを恐れ、面倒な合意形成プロセスを避けるために、革新的な意見が言いにくくなるのです。 - 対立を避ける空気
直接的な意見の対立を好まない文化的な傾向は、現状に対する健全な「NO」を言いにくくさせます。経営者視点を持つには、時には上司や既存の方針に疑問を投げかけることも必要ですが、日本ではそれが「和を乱す」と見なされ、活発な議論よりも沈黙が選ばれてしまうことがあります。
3. 言葉にならない職場のルール
明文化されていなくても、私たちの行動を強く縛る、日本特有の暗黙のルールがあります。
- 「空気を読む」と「忖度」
上司や組織の意向を敏感に察知し、それに合わせて自分の言動を調整する高度な社会スキル。しかし、これはデータに基づいて客観的に判断するという経営者目線とは、時に逆の行動を促します。「会社にとって何がベストか?」を考える前に、「上司は何を望んでいるか?」を無意識に考えてしまうのです。 - 「甘え」の構造
心理学者の土居健郎氏が指摘した「甘え」という概念は、会社組織においては、社員が会社に対して無意識に抱く「最後はなんとかしてくれるだろう」という依存心として現れることがあります。この意識は、会社の成功に対する個人の責任感を薄め、経営者が持つべき厳しい自己責任の感覚とは少し異なります。
これらの文化的な特徴は、決して悪いものではありません。組織の安定やチームワークに貢献してきた素晴らしい側面もあります。
しかし、「社員に経営者視点を」と考えるとき、これらが障壁として働く可能性があるという現実を理解しておくことが大切です。
文化を無理に変えるのではなく、その特性を理解した上で、うまくマネジメントしていく視点が求められます。
表4.1:日本企業文化の光と影
文化的特性 | ポジティブな影響(安定・協調性など) | ネガティブな影響(経営者視点の阻害) |
コンセンサス形成 | 関係者の納得感が高く、決まった後の実行がスムーズ。 | 意思決定が遅れがちで、斬新なアイデアが出にくい。 |
チームワーク重視 | 組織目標に向かう一体感が生まれやすい。 | 個人の責任が曖昧になり、同調圧力が生まれやすい。 |
長期的雇用 | 会社への愛着が湧き、独自のノウハウが蓄積されやすい。 | 現状維持を好み、変化への意欲や危機感が生まれにくい。 |
ハイコンテクスト(忖度) | 阿吽の呼吸で、効率的に意思疎通できる。 | 率直な意見交換や、データに基づく客観的な思考を妨げやすい。 |
メリットだけじゃない!経営者視点を求めることの“副作用”
社員に経営者視点を持ってもらうことは、会社にとって多くのメリットがありますが、進め方を間違えると深刻な副作用を引き起こしかねない「両刃の剣」でもあります。
この章では、その光と影の両方を冷静に見ていきましょう。
1. 会社が得られる大きなメリット
多くの経営者が社員の視点変革を熱望するのには、確かな理由があります。実現すれば、組織は大きく成長できるからです。
- スピードと革新性のアップ
全社員がオーナーのように市場の変化に敏感になれば、意思決定のスピードは格段に上がります。現場から「もっとこうすれば良くなる」という改善案や新しいアイデアがどんどん生まれ、会社全体のイノベーション力が高まります。 - 効率アップと収益改善
社員一人ひとりがコストと利益を意識して働くようになれば、無駄な経費は自然と減り、資源の使い方も最適化されます。これは、会社の収益アップに直接つながります。 - 未来のリーダーが育つ
あらゆる立場の社員が経営者目線で物事を考える習慣をつけることは、将来の経営幹部を育てる最高のトレーニングになります。日々の仕事を通じて会社全体を理解する経験を積んだ人材は、スムーズに次のリーダーへと成長していけるでしょう。
2. 社員個人にとってもプラスに
経営者視点を身につけることは、社員自身のキャリアにとっても大きな武器になります。
- キャリアアップの近道に
自分の部署の枠を超え、会社全体の視点で考えて行動できる人材は、昇進や重要なプロジェクトのリーダーに抜擢されやすくなります。 - 仕事がもっと面白くなる
自分の仕事が会社の成功にどうつながっているのか、その「意味」を深く理解することで、仕事へのやりがいや目的意識が格段に高まります。これは、仕事の満足度や会社への愛着(エンゲージメント)を高める強力なエンジンになります。
3. でも、ここに注意!隠れたコストと危険性
しかし、この理想を追い求める際には、見過ごせないリスクも存在します。特に、やり方を間違えると、会社と社員の両方に深刻なダメージを与えかねません。
社員にとっての危険:「権限なき責任」が生む過度なストレス
十分な権限や情報、そして見返りを与えずに、経営者と同じレベルの精神的負担(業績への責任感など)だけを求めることは、社員を過度なストレスや不安、そして燃え尽き症候群(バーンアウト)に追い込む危険があります。
この要求は、社員が正当な対価なしに自分の時間や健康を犠牲にする「やりがい搾取」になりかねません。もっと言えば、「社員の利益を捨てろ」と言っているのと同じだ、という厳しい見方もあります。
会社にとっての危険:コントロール不能な「カオス」状態に
明確なビジョンや戦略がないまま、全社員が「自分も経営者だ」と自由に行動し始めると、各部署が自分の利益ばかりを主張しあい、会社全体としてはバラバラな方向に向かってしまう恐れがあります。
自分の立場が脅かされると感じる中間管理職から、思わぬ抵抗にあう可能性もあります。
本当の意味でのオーナーシップ文化を作るには、研修や情報システムの整備、そして根本的な文化の変革に大きな投資と時間が必要です。短期的には、むしろ生産性が落ちる可能性も覚悟しなければなりません。
結論として、経営者視点の育成は、権限、情報、そして報酬といった「本当の武器」を与えずに行うと、非常に危険です。
それは、社員のやる気を引き出すための便利な言葉として使われ、結果的に会社への信頼を失わせ、冷めた空気(シニシズム)を蔓延させることにもなりかねません。
「何を求めるか」以上に、「そのための環境をどう整えるか」が何倍も重要なのです。
明日からできる!社員の「経営者視点」を育てる具体的なアクションプラン
社員に経営者視点を持ってもらうのは、精神論や研修だけでは不可能です。それは、リーダーのあり方から組織の仕組み、日々の仕事の進め方まで、会社全体で取り組むべき体系的なプロジェクトです。
この章では、そのための具体的な戦略とツールをご紹介します。
1. すべてはここから始まる:リーダー自身の変革
社員に変わってほしいと願うなら、まず経営者やリーダー自身が変わる必要があります。
- リーダーの役割をアップデートする
最も大切な第一歩は、リーダーが自らの役割を「指示して管理する人」から「社員が活躍できる環境をデザインする人」へと変えることです。情報を独り占めせず、意思決定のプロセスをオープンにし、社員が自分で考えて動ける「舞台」を作ることが、これからのリーダーの仕事です。 - 「サーバント・リーダーシップ」を実践する
これは、部下を支配するのではなく、「部下に奉仕し、彼らの成長を一番に考える」リーダーシップのスタイルです。積極的に部下の声に耳を傾け、共感し、彼らが仕事を進める上での障害を取り除くことに全力を尽くします。こんなリーダーの下なら、社員は「信頼されている」と感じ、安心して新しい挑戦ができるようになります。 - 「心理的安全性」のある職場を作る
リーダーは、「こんなこと言ったら怒られるかな…」と社員が心配することなく、自由に意見を言え、失敗が学びのチャンスとして捉えられる文化を意図的に作る必要があります。そのためには、「賢い失敗」を褒めたり、リーダー自身が自分の失敗談をオープンに話したりすることが効果的です。心理的安全性がなければ、社員は萎縮してしまい、本音の意見や革新的なアイデアは決して生まれません。
2. 組織のOSを入れ替える:仕組みの変革
リーダー個人の努力と合わせて、会社全体の仕組みを変えることが不可欠です。
徹底的に情報をオープンにする(サイボウズの例)
- 情報の民主化
財務データや役員会議の議事録など、これまで一部の人しか見られなかった会社の重要情報を、原則として全社員に公開します。これにより、社員が経営者視点を持つ上での最大の壁だった「情報の格差」がなくなります。 - 「質問責任」という文化
会社の決定に疑問を持った時、質問することは社員の「権利」ではなく「責任」である、という文化を作ります。これにより、社員は納得して仕事に取り組めるようになり、コミュニケーションが一方通行ではなくなります。
戦略的に「権限」を委譲する
これは単なる仕事の丸投げではありません。明確なゴールを示した上で、社員に意味のある「決断」を任せるプロセスです。成功のためには、(1)目的と期待する成果をしっかり共有し、(2)任せる相手と権限の範囲を話し合って決め、(3)計画を立て、(4)実行中は適切にサポートし、(5)結果に対して丁寧にフィードバックするというステップが重要です。
オーナーシップを育てる人事制度
- 評価制度を見直す
言われたことをこなす能力だけでなく、自分で問題を見つけて解決する力や、部署を超えて協力する姿勢、会社全体への貢献度などを評価項目に加えます。上司だけでなく同僚や部下からも評価をもらう「360度評価」も有効な方法です。 - 目標設定を連動させる(OKRなど)
OKR(Objectives and Key Results)のような仕組みを使い、会社の大きな目標と、各チーム・個人の目標をガラス張りの形でつなげます。これにより、社員は自分の仕事が会社の成功にどう貢献しているかを具体的に理解できるようになります。
3. 実践的な育成ツールと先進企業の事例
仕組みの変革と合わせて、社員のスキルとマインドを直接育てるためのツールも活用しましょう。
- 体験から学ぶ(経営シミュレーション研修)
参加者が社長になって仮想の会社を経営するゲーム(MG研修など)は、経営者視点を体感するのに非常に効果的です。ゲームを通じて、決算書の作り方といった会計の知識をリアルに学び、ライバル会社との競争の中で、戦略的な意思決定の難しさと面白さを実感できます 73。 - 視座を高める1on1ミーティング
上司と部下の1on1を、単なる進捗確認の場から、部下の経営者目線を育てる対話の場に変えましょう。「もし君がこの部署のリーダーだったら、来期は何を一番にやる?」「うちのビジネスにとって、一番の脅威は何だと思う?」といった問いかけは、部下の視点をグッと引き上げる効果があります 79。 - 先進企業から学ぶ
ユニクロの「全員経営」: 店舗の店長に大幅な裁量と損益責任を与え、リアルタイムの販売データを活用させることで、現場レベルでの経営者マインドを徹底的に育てています。お客様の声を元にした商品開発や店舗運営は、まさに「全員経営」のお手本です。
サイボウズの「100人100通りの働き方」: 徹底した情報公開と個人の自律性を尊重する文化を通じて、社員が自分の働き方や会社のあり方に対して強いオーナーシップを持つ、エンゲージメントの高い組織を作り上げています。
表6.1:社員の成長ステップに合わせた育成プラン例
階層 | 育成目標 | 主な育成方法・ツール |
若手社員 | ビジネスの基本を学び、自分の仕事の貢献を実感する | ・会社の数字(財務三表)の基礎研修 ・部署をまたぐプロジェクトへの参加 ・仕事の「なぜ?」を一緒に考える1on1 |
中堅社員 | 部署レベルでの戦略的視点と、主体的な問題解決力を身につける | ・経営シミュレーション研修 ・少し背伸びしたプロジェクトの責任者を任せる(ストレッチアサインメント) ・後輩の指導役(メンタリング) ・OKRを使った目標設定 |
管理職 | 会社全体・長期的な視点を持ち、部下のオーナーシップを育てる力をつける | ・サーバント ・リーダーシップ研修・全社戦略を決める会議への参加 ・効果的な権限移譲のコーチング ・経営トップとの対話セッション |
結論:さあ、「全員経営」という新しいチャレンジへ
これまで見てきたように、経営者と社員の間に存在する「当事者意識の溝」は、誰か個人の問題ではなく、会社の仕組みそのものに根差した構造的な課題です。
経営者が社員に「自分と同じように考えてほしい」と願うのは、会社の未来を思うからこその、当然の願いです。しかし、その願いは、リーダーのあり方、情報の流れ、権限の与え方、そして評価の仕組みといった、会社を動かすOS(オペレーティングシステム)全体をアップデートしない限り、叶うことはありません。
この溝を乗り越える道は、簡単ではありません。それは、経営者自身がこれまで慣れ親しんだ「管理・統制」というスタイルを手放し、情報をオープンにし、本当の意味で権限を委ね、そして何よりも社員を心から信頼するという「勇気」を必要とします。
一部のカリスマが引っ張っていく時代は、もう終わりを告げました。これからの時代、本当に強い組織とは、全社員が自分の頭で考え、自分の足で動き出す「全員経営」の文化を築き上げた組織です。
この記事でご紹介した分析や具体的なアクションプランは、日本の企業が「指示待ち文化」から「オーナーシップあふれる文化」へと進化するための、一つの地図です。
この新しいチャレンジに踏み出す覚悟こそが、これからの時代を生き抜くリーダーに最も求められる資質なのかもしれません。